DVDを見て、再度『戸惑いの惑星』に旅立つ
一年の時を経て、バレンタインデーに発売されました。TTT『戸惑いの惑星』。
TWENTIETH TRIANGLE TOUR 戸惑いの惑星(DVD+AL)(初回生産限定盤)
- 出版社/メーカー: avex trax
- 発売日: 2018/02/14
- メディア: DVD
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昨年観劇した際には、3記事に渡って感想を書きました。
▼TTT『戸惑いの惑星』 運命は、自分の選択によってつくられている
こんなに書いたのに、DVDを見たら、また考察したくなるという、おそろしく中毒性の高い作品…。積極的に戸惑いに行くスタイル。
「僕じゃないなら誰なんだ」で、長谷川=彼女説を唱えて(?)いましたが、記憶違いで間違いがあったので、改めて考察し直しました。
※ネタバレあります
- 長谷川の小説
- 長谷川と三池の公園の場面
- 長谷川=彼女説の訂正
- 長谷川=彼女はどこで感じられるか
- 長谷川=彼女の乖離
- 三池の話
- 長谷川はどうなるのか
- 人生は悲劇か、それとも喜劇か。
- 『戸惑いの惑星』とは
長谷川の小説
長谷川の小説「迷いの病の世迷言」、これは最初長谷川の記憶を元に書かれていましたが、途中から当事者でしか知り得ないことも書かれています。
おそらく、彼女の代筆をした後に、自分を含め、三池と由利にメールを送ったり、真実を記した手紙を書いたりしている中、同時に小説を書き始めていたのではないかと。
最初は長谷川自身の記憶を元に書いていたが、途中から集合的無意識を通じ、無意識で小説を書いていたことは、間違いありません。
で、途中ってどこやねんと言いますと、冒頭の長谷川が手紙代筆業をするまでの軌跡、長谷川と三池の公園のシーンを経て、由利と教授の研究室での場面から考えられます。
研究室のシーンは、病室で由利が「俺のことまんま書いてる」と言ってます。半年前、画家に実験を断られたり、予算が下りなかった際のスマホの話など、由利や教授、その場にいなかった人しか知り得ないことです。
その前の公園のシーンは、三池は何も不思議に思ってないので、長谷川の創作だと考えられます。
なので、研究室のシーンこそ、長谷川が集合的無意識にアクセスし、書き始めた最初のシーンと推測しました。
長谷川と三池の公園の場面
ではなぜ、公園のシーンは創作だと考えられるのでしょうか。
それは、研究室のシーンと違い、長谷川の記憶を元にして書くことができるからです。
長谷川は、彼女の手紙を代筆するため、彼女から彼女自身のこと、そして三池のことを知っています。
彼女から聞いた出来事を元に、公園のシーンに反映させているのでしょう。
それが分かるところが、2つあります。
1つは、三池が公園で似顔絵を描いていること。
その後の病院で、由利に「ハセッチはお前が似顔絵を描いていることは知ってるの?」と聞かれ、「いいや、知らないはずだ」と答えていることから推測できます。
2つ目は、「似顔絵を見て怒って帰った客がいたこと」。
阿修羅像を似顔絵に描かれ、怒って帰った客がいたことは、彼女が三池の元を去ることにかかわっているので、間違いなく長谷川は聞いています。
公園のシーンは、阿修羅像ではなくナマハゲの絵でしたが、彼女から聞いたことを元に、長谷川が改変したと考えることができます。
そしてもう一つ、公園のシーンが、長谷川の記憶を元に書かれた創作だと考える理由があります。
それは、長谷川と三池の出会いの場面。
公園では「三池くん…じゃない?」と、長谷川から声を掛けました。
しかし、実際にスタジオ・サーティースリーで会った時には、「もしかして…長谷川…くん?」と三池から声を掛けてます。
長谷川はこれを書いた時点では、三池のことを知っていますが、三池は長谷川のことを知ってるかはわかりません。なので、長谷川が三池に気づき声を掛けたシーンになったのではないでしょうか。
長谷川=彼女説の訂正
昨年観劇した際のブログで、彼女=長谷川の根拠の一つに、前述した公園のシーンで、「似顔絵を見て、怒って帰った客がいた」ことを挙げました。
公園のシーンはほぼ創作の中、三池が「半年前に似たようなことがあった」というセリフがあったので、そこから「ここは事実だろう」と思ったところを抜き出しました。
なんですけど、三池の「半年前に似たようなことがあった(要約)」という、そんなセリフはどこにもありませんでした。/(^o^)\ナンテコッタイ
由利の台詞と手紙の内容がごっちゃになって、どこかで言ってたと錯覚したみたい。
ということで、「公園で客が怒って帰ったシーンに、リアルでは長谷川の位置に彼女がいた」というのは、正しくありません。ごめんなさい!
しかし、「怒って帰った客」を彼女が見ていたことは確かなので、「公園にて、客が怒って帰ったシーンの長谷川を通して、彼女が見える」と言った方が、ニュアンスとしては近いです。もしかしたら、怒って帰った客を見た所は、公園かもしれないし、街角かもしれません。あのシーンで断言できるわけではない。
これでも、長谷川=彼女と言えなくもないですが、当初私が思っていたのとは意味合いが違うので、ここに改めて訂正致します。
長谷川=彼女はどこで感じられるか
じゃあ、長谷川=彼女と言えないのか、というとそんなことありません。ここで否定すると、最後の「君に似顔絵を描いてもらうのは、初めてじゃない気がする。でもあれは、僕じゃなかったね」という、長谷川の台詞を証明できなくなってしまうので。
長谷川を通して、彼女を感じることができる場面は、他にもあります。
それは、長谷川が三池と由利に宛てた、真実を記した手紙を読んだシーン。
ここでは、長谷川の手紙を、3人が代わる代わる読んでいます。
最初に三池、次に由利、長谷川に代わり、再び三池、由利、長谷川の順に代読してます。
その中で、長谷川の時のみ、読むのではなく演じているところがあります。
誰を演じているか。
そう、彼女です。
実際に、この場面を再生してみてください。
長谷川自身のことが書かれている箇所は、三池・由利が代読していますが、彼女が手紙に登場したところから、長谷川が読み始めます。
”そんな時彼女は現れた。
うつむきかげんに 愛する人に手紙を書きたいと言う。
その依頼を聞いた時、その代筆だけは
してはならないような気がした。
でも僕はその仕事を断ることができなかった
なぜならーーー まだ彼女のことが好きでたまらなかったから。”
(略)
”その時奇跡が起きた。
自分で作った曲が!想いを込めたあの曲が 誰かの手に寄って演奏されている。
音は、ジャズクラブの地下へ続く階段から聞こえた。
思わず駆け下りた。
目の前にはーーー 彼がいた”
ここです。ここのシーンのみ、長谷川は彼女を演じていた、いや彼女だったんです。
舞台を見て、左手に三池、中央に長谷川がいますよね?
小説の中で三池が由利に彼女との出会いを語っていた時、左手に三池がいて、中央の彼女はピンスポで表現されています。
彼女が階段を駆け下りてきて、二人が恋に落ちたシーンと、まったく同じ立ち位置なんです。
初見の時、このシーンを見て、「ハセッチは彼女かもしれない」と思ったことを思い出しました。
”彼がいた”の瞬間、三池と彼女の出会いを再現してるようでした。
さらに言うと、舞台左手に三池、中央に長谷川(彼女)、二人の間に由利がいるところまで同じです。
この後、三池、由利と再び代読し、長谷川が「”そのための手紙を書いてください”」と言うまで、長谷川は後ろで彼女を演じています。小説で三池が語った時、彼女はいなかったけど、この場面でその姿が長谷川を通して見えます。
これが、長谷川=彼女の根拠です。長谷川の中に、彼女はいたんだなあ思いました。
ついでに言うと、最後の三池が長谷川の似顔絵を描くシーン。
長谷川「なんか不思議だな。君に絵を描いてもらうのは、初めてじゃない気がするよ」
三池「それは、気のせいだ」
長谷川「ああそうか。あれは僕じゃなったね。そうか…そうか…」
このシーン、DVDで見るまで全然気づきませんでしたが、BGMが『Sing!』なんですよね。三池が彼女と恋に落ちた時の歌じゃん!もう!深読みしていいよねコレ!?
【追記】
副音声を聞いたら、イノッチが手紙のシーンでは「『Sing!』の時の、ハッピーな感じを彷彿とさせるような動きをした(要約)」と言ってたので、意図通りに感じられたと思う。
長谷川=彼女の乖離
長谷川=彼女を証明しておいてなんですが、最後は長谷川くんは、=彼女ではなくなります。
長谷川の台詞を踏まえると、「そうか そうか…」が、自分の中で確かめているように聞こえます。「そうか…そうだよね(納得)」みたいな。
だから、彼女=長谷川の混在の中、彼女の輪郭がはっきり認識できて、「これは自分じゃない」というのが分かった瞬間なのかなぁと思いました。自分じゃないのが分かったら、残ったものが自分だと認識できた、みたいな感じ。
最後、三池の似顔絵を見て「ああ、これが僕だよ」という言葉で、病状が回復する兆しだと結論づけました。
三池の話
小説の中で、三池は描きたくもない絵=描かされてる絵=似顔絵と言っておきながら、本当に描きたい絵は、描こうともしてないという矛盾を抱えてました。
なんで、俺の絵は売れないんだと嘆きながらも、俺の絵=描きたい絵は全く描いてないし。
小説の三池は、長谷川くんの複雑な思いが反映されているのかもしれません。そりゃあ、十数年思いを寄せてた人の恋人だし、ちょっと嫌な印象に書きたくなってもおかしくない。
対して、由利像は、好きな人の兄だからか、理知的でいかにも”研究者”って印象でした。実際の由利は”俺”と自称しますが、小説では”私”と言ってますもんね。
小説なので、三池が似顔絵は描きたくない、描かされている絵だと思っていたかは、定かではありませんが、もしそうだとすると、三池自身が「描きたい」と強く思ったのは、彼女と長谷川だけです。
長谷川の絵を描いておいて、「見るか?」って確認取るところなんかカワイイですよね。完全にビビってる。
でも「プロだからな」言葉で、画家として生きていこうと、美しさだけでなく、むごく残酷なところも向き合おうと決心したと感じ取りました。未来を描き出す自分の絵によって、人が離れていくことも受け入れたんだよきっと。三池~~;;
結局三池は、彼女が去って沈み、彼女の本当の気持ちを知って、再び自分と向き合うという、女に振り回されてるのがおもしろいです。運命を気にしすぎる、冒頭の坂本くんみたい。
長谷川はどうなるのか
長谷川は、三池をちょっと嫌な人に書きながらも、二人に真実を書いた手紙を宛てます。ハセッチのやさしくていじらしいところを、感じずにいられません。
長谷川は、病気が回復=高校時代からの想いの清算 だと思ってます。 清算というか、ひと区切りつけるってことなのかなぁ。
ずっと秘めていた、彼女への想いを、自分以外に知ってもらいたかったのかもしれない。叶わなかった想いを、誰かに知ってもらえるように表現したことが、後悔すらも丸っと肯定し、前に進むということなのかもしれない。
カーテンコールは、自分を生きている長谷川と、三池と由利がクラブ33で演奏してる未来の姿だと信じたいです。
人生は悲劇か、それとも喜劇か。
長谷川は真実を知って病気が進み、三池は真実によって、自分を取り戻すんですよね。その二人を繋ぐのが彼女であり、観察するのが由利。
でもそれぞれを俯瞰してみると、また違う見方ができます。
想いが通じ合うことはなかったけど、家族にも打ち明けることができなかった、彼女の真実を知ることができた長谷川。
彼女の真実を知らされなかったけど、離れてなお、彼女に「今でも幸せ」と言われるほど愛し合えた三池。
人生は悲劇か、それとも喜劇か。
どちらが良かったかなんて、今はわからない。
冒頭のトニセンによる戸惑うことで、坂本くんは占いと運命について話してました。占いは、三池の絵が持つ予知のこと。
運命とは、この舞台がひとつの答えを示している、そう強く感じました。
『戸惑いの惑星』とは
いくつもの考え方ができて、見るたびに違う見方ができる、考察が滾る舞台でした。
円盤化されて本当によかった。発売されなかったら、いまだに勘違いしてたところもあった。初見で引っかかったのに、すっかり忘れてしまったシーンを、一年越しに言語化することもできた。
観たことがない人も、ぜひ見てみてください。
舞台自体を楽しむだけでなく、ストーリーの考察をすることで、数学の証明をする気分になったり、宇宙の真理を解き明かす研究者の気分を味わうこともできます。
オススメは副音声付の通常版。副音声、まだちゃんと聞けてないけど、また舞台の見方が変わるかもしれない。 それくらい、いろんな解釈、楽しみ方ができる舞台でした。