「二十日鼠と人間」を観て、<生きる>について考える
「二十日鼠と人間」を観劇してまず思ったのは、すごく質が良い舞台だということ。
ここでの「質が良い」とは、「脚本が良い」ということです。
心理描写が鮮やかで、綺麗に伏線を回収していく緻密な脚本の上に、演者の熱演に当てられ、考えさせられる舞台でした。
※以下ネタバレ
レニーとジョージ
足りないものを補い合っている、共依存の関係であると同時に、互いが孤独を感じさせない人であったのではないでしょうか。
社会性を持ったジョージ(三宅健)にとって、レニー(章平)は癒しの存在であったし、子供のように純粋なレニーにとって、現実を生きるためには、ジョージの頭が必要だった。
ジョージは確かに、生きるための知恵と能力を携えてますが、それだけでは幸せを得ることはできません。
現代でよくある、「仕事をしてお金もあるけど、なんだか満たされない」という状態に近いものがあります。
世界大恐慌真っ只中、天涯孤独で身内もいない中、お互い唯一無二の存在は、とてつもなく安心できる、心の拠り所だったと思います。
ジョージがレニーに対し、イライラしても疎ましく感じても離れなかったのは、この人だけは!という拠り所が必要不可欠だったから。
特にジョージは、レニーが自分のことだけの言うことを聞いてくれるという事実は、ものすごく承認欲求が満たされたのでしょう。
自分がいないと、コイツは生きていけない。自分だけを求めている。と、生を強く感じる存在だったんじゃないかなあ。
劇中で誰かが、「男にとって女は、傍にいて話を聞いてくれるだけでいいんだよ」と言ってました。
これは主語が大きいのもあり、女に話を聞いてくれるだけの役割を求めているから、現代だと女性軽視と凶弾されそうなセリフです。
傍にいて話を聞いてくれるだけでいい(から反論するな)というニュアンスなんですよこれ。
しかし別の側面から見ると、男は話を聞いてくれる人がいるだけで満たされる、ということでもあります。
ジョージにとってレニーはそういう存在。
いてくれる、自分の話を聞きたがる、聞いてくれる、だから癒され満たされる。
ちなみに女も傍にいてほしいと思うけど、誰でもいいんじゃなくて、好ましく思っている人にという形容詞が付きます。
つんく氏が作詞した、モーニング娘。の楽曲『One・Two・Three』に、こんな歌詞があります。
100万ドルの夜景よりも 10カラットのダイヤよりも
ただそばに居てほしいだけよわかる? Hey Baby
ほんとコレ。
つんく氏はなぜこんなにも、女の絶妙な感情を分かるんだ…。(※個人の感想です)
まあレニーは、子供のように純粋だけど力が強いが為に残酷で無慈悲であり、ジョージの頭を悩ませる人でもありました。
癒しの存在だけではなく、一歩間違えれば自分も地獄に連れていかれるような危うさもありましたが、だからこそ自分が手綱を握っていれば大丈夫だと思っていて、関係がより強く深いものになっていたのだと感じます。
もう一つ、ジョージがスリム(姜暢雄)に「アイツ(レニーのこと)といると、自分が賢くなったように思える」と語ってました。
レニーがああだから、ジョージにとって強く自分の存在を感じさせるのと、自分は能力のある人間だ、と優越感も感じたのだと思いました。
ここでの優越感とは、誰かを蔑むものではなく、対比によって自分の能力の肯定・承認ができる存在だったのだなあと。
ジョージにとって、レニーは癒しであり、自分の生きている意味を強く感じさせてくれる人です。
強い腕力もうまく使えば良い、そのために自分がレニーに言い聞かせれば良いと思ったから、レニーの尻ぬぐいをし、怒り散らしても離れようとしなかった。
ではレニーにとってジョージとはどういう存在か。
自分を保護してくれる人がいないと、現実世界を生きることができないことを、無意識に感じ取っていたと思います。
レニーは倫理観と社会性はありませんが、何も分からない子供ではありません。
舞台の始めは、前の農場から逃げる原因になったレニーに、ジョージが憤慨して殴ったことに怒り、「俺は洞窟で暮らすからいいもん!」と啖呵を切ります。
それに対しジョージが謝り、和解します。
啖呵を切ると表したけど、傍目には子供がすねた感じでもありました。
終盤、レニーが同じセリフを言った際は、ジョージの悲痛な雰囲気もあり、おずおずと、自分が迷惑になっているなら離れようか?という意志を感じ取りました。
そこにきても、ジョージはレニーと一緒にいることが迷惑なんてことはない、と言って、レニーはいつもの調子に戻るのですが。
救いはあったのか
最後、ジョージがレニーの頭を後ろから打ち抜いたところで、幕が引かれます。
私はこの幕引きを、救いがあったと感じました。
レニーはジョージと共にした夢を見たまま、人生を終えることができました。
これまでジョージが尻ぬぐいをしてきたが、今回ばかりはもう無理だった。
レニーがこの先、生きていくとしても、今までのようにジョージが手綱を握って、広大な牧場を走り回ることができず、暗い独房のようなところで、独りぼっちで生きることになる。
そんな環境をレニーに強いるのであれば、最後に夢を見たまま、レニーにとっては現実ともいえる、幸せを感じながら死ぬことは、この先孤独を感じさせたくないという、ジョージのやさしさだと思います。
こうするしかなかったが、これ以外の幕引きはないと思う最後。救いだったと思います。レニーにとっては。
銃を引いたジョージにとって、救いだったとは言えません。
この先ジョージがそのまま生きていくとして、お金や仕事など物質的なものは手にできるでしょう。
お金やもしかしたら農場まで手にできるかもしれない。
物理的な幸せから、「安全」から成る「安心」を手にすることはきっとできると思います。
でも、どこかぽっかりと穴が開いたような気持ちになるんだろうなあ。
一番恐ろしいことは孤独。孤独からくる寂しさ。
ジョージは孤独を埋められる存在を既に得ていたからこそ、この先を想像すると辛いものがあります。
得て、ほしいなあ…。
レニーとキャンディの犬
レニーとキャンディの犬の最期は、対となっています。
キャンディ(山路和弘)が可愛がってる犬は老犬で、ひとりでは餌を食べるどころか、歩くこともままなりません。
キャンディは、老犬が子犬の時から世話をしてきたから愛着があり、世話をすることで癒されていました。
しかし、カールソン(駒木根隆介)が老犬を大部屋に入れることで、匂いが籠るから嫌だと言ってきます。
老犬は歩けない、餌も食べられなくて、何のために生きているのか分からない、むしろその状態で生かすことの方が可哀想だろう、犬の世話がしたいなら、スリムのところで子犬が産まれたから、そっちの世話をすればいい、と老犬の処分を提案します。
キャンディは結局、老犬の処分に同意しますが、自分で銃の引き金を引くことはできず、カールソンにお願いします。
これはレニーの最期と重なります。
違うのは、レニーは唯一無二であるジョージが引き金を引くこと。
キャンディと老犬は、キャンディが世話をしないと生きていけない、つまり共依存の関係。
ジョージとレニーも、お互いの欠けた部分を補い合う共依存の関係。
キャンディは老犬を撃てなかった。
ジョージはレニーを撃った。
最期に使われた銃は、奇しくも同じ銃。
誰もが加害者で、誰もが被害者。
<生きる>とはどういうことか、生きるの選択について考えされられるシーンでした。
レニーとクルックス
上記でレニーはこの先生きるとしても、暗い独房のようなところで、独りぼっちで生きていくことになり、そうさせたくなかったジョージのやさしさと言いましたが、黒人であるクルックス(池下重大)は、同じ農場でそのような生活をしてるんですよね…。
独房とまで言いませんが、明かりをつけることも制限されてて、誰とも話せない環境。
当時の社会情勢が現れてて、寂しい気持ちになります。
クルックスの環境は、当時の黒人の扱いにしてはまだいい方なのかもしれません。
それでも綿でやさしく絞められ、身動きのできない閉塞感と孤独を感じました。
レニーとカーリーの妻
観劇後、カーリーの奥さんの名前覚えてないわ~と思ったら、そもそも名前がなかった。
‘‘カーリーの妻‘‘という役名でしかなく、女性をひとりの人間として扱ってない様がありありと感じました。
カーリーの妻(花乃まりあ)は、農場の息子・カーリー(中山裕一朗)の妻であるが、夫婦生活はうまくいっておらず、農場の男に媚びる日々。
カーリーはそんな妻の尻を追いかけまわしてる状況です。
カーリーの妻は、家に居ても楽しくなくて、誰かとお話したいだけ。
そんな行動をする原因は、ただただ寂しいから。
カーリーの妻は、寂しいからお友達が欲しいと言ってますが、その行動は男に媚びたもの。
自分の身のため、農場の男はカーリーの妻を相手にしないので、カーリーの妻は満たされることはありません。
パンフレットでも言われてましたが、男に媚びることでしか、<寂しい>を満たす方法を知らなかったことが、バカで悲しい女(演出家談)なんです。
カーリーの妻が美人で可愛らしい人だったのも、ある意味拍車をかけたのかもしれません。
美人じゃなかったら、男に媚びる以外の方法を考えるけど、美人だからこそ短絡的に考えてしまったというか。
そんなカーリーの妻とレニーの関係の対比を一言で表すとすれば、孤独を感じさせない相手がいたか・いないか、でしょうか。
レニーにはジョージがいたが、カーリーの妻にはいなかった。
劇中で最期を迎える二人ですが、レニーは夢を見ながら死ぬことができて、カーリーの妻は悲痛な現実で死んだ。
夢、というのもキーワードで、レニーはほんとに明るい未来、夢を見てる最中に死ぬことができましたが、カーリーの妻はレニーに明るい未来を語って、それが覚めた状態にでレニーに絞めつけられ、息を引き取りました。
どちらも子供のような純粋さを持ち合わせていた二人だから、カーリーの妻がレニーに夢を語っている姿は、無邪気で可愛らしくもあり、ひどく不安定で残酷だったと感じました。
総括
演出家である鈴木裕美さんは、「登場人物が妙な行動をするときの理由は100%、「寂しいから」である」とおっしゃってます。
この言葉にものすごく納得しまして、「人間一人で生きてはいけない」という昔ながらの格言が頭に浮かびました。
<生きる>ことを改めて考えさせられる舞台です。
人間が求める<寂しい>という源流は同じなのに、全く違う形で行動に現れてる様が、第三者だからこそ見て感じて、考えさせられます。
舞台は1930年代ですが、<生きる>ことというか、現代でどうのように生きていくのか、生きていきたいのか、を考えました。
アイツが正しい・間違ってる、喜怒哀楽だけでなく、せっかく第三者として舞台を観てるからこそ、視点を高く多方面から見て、考え他人と語り合いたくなる。
また演者の演技が、脚本のテーマを叫ぶような熱演だったからこそ、一観客にここまで伝わり、考えさせられる作品になったのだと思います。
ストーリー上、見る側としてはなかなか辛いところもあったけど、見れば見るほど味わい深くなる舞台じゃないかなあ…奥が深い…。